3時頃起床。ウトウトした。5時頃歯磨き洗面。6時過ぎから朝のお勤め、一部層略。雨の朝となった。今日はクリスマス。イエズス・キリストの誕生日だそうだ。私は曹洞宗なのでお釈迦様の誕生日を大切に思っている。私見を述べる。子どもの頃、花まつりよりクリスマスが嬉しかった。クリスマスイブに靴下を枕元に置いて寝た。すると翌朝、枕元にブーツの形をした輝く物が置いてあって、中にはお菓子がいっぱい詰まっていた。素直に嬉しかった。クリスマスは嬉しい楽しいものだと思った。サンタさんは本当にいると思っていた。私の住む大江にはカトリック教会がある。同級生や友だち、近所にもカトリックの子どもたちがたくさんいた。教会までは遠かったので夜に出掛けることはなかったが、学校帰りに何度も立ち寄っていた。白くてきれいで広い立派な明るい教会だった。その姿は今も変わらない。みんなで遊んでいると、神父様やシスターさんたちが親しく声を掛けてくれて、お菓子ももらった。楽しい場所だった。それに比べるとお寺は黒くて暗くて重たい印象があった。でも私は幼い頃から母に連れられてお寺参りに行っていた。小学校の近くにあったので、毎日のようにその姿は目に入っていた。50段ほどある参道の階段も、息を弾ませながら上って遊んでいた。お寺参りをする子供は少なかったので、和尚さんにもかわいがってもらった。弟も一緒に行っていた。すると和尚さんから、男の子が二人居るので一人は坊さんになったらどうか、と言われたことも何度かあった。さすがにその気にはならなかったが、今ではお経を読むようになった。大江には天理教の教会もあった。もちろんお宮もあったので神道もあったし、引っ越して住み着いた人の中には曹洞宗ではない仏教の人もいた。創価学会の人もいた。大江にはいろんな宗教の人たちがいて、それぞれに深く信仰をしていた。それは今でも続いている。そして、宗教や信仰の枠を越えて人々が集い、協力をして分かち合う地域でもある。誇らしいし、愛している。親から聞いた話。カトリック信者の漁師さんがいたそうだ。漁に出ていたとき天候が急変し、船が難破しそうになった。同船していた息子に、助けを呼んで来いと命じて荒波の中を岸まで泳がせたそうだ。彼が戻って来るまでの間、漁師さんは命がけで船を守った。そのとき漁師さんは、キリストやマリア様、聖者の名だけでなく、知っている限りのあらゆる神々、仏の名を唱え叫んだそうだ。ある坊さんのお話。仏様は人の生き方を教えてくださる。生、老、病、死。雨風や地震雷など天変地異、気象天候のことには力は及ばない。それは神様にお願いしてください、と。昨夜イブのミサを聴いていた。全知全能の神、という言葉があった。カトリックの神は、神様なんだと思う。いや、神様という言葉や文字は私の感覚では、少し的外れな感じがある。全知全能の神、と言わなければならないだろう。私は宗教についてはあまり詳しくないが、この地に居ていろいろ考えることがある。信仰や信心はそれぞれ個人の自由だと思う。そんな国、地域、時代に生まれ育ったことに感謝したい。日本は神の国である、という発言をした政治家がいた。ここでいう神とは伊弉諾、伊弉冉から始まる日本の神々のこと。天照大神を中心とする神々を指しているはず。問題になった。でも、私も同感ではある。日本というか、日本というこの列島に住み着いた人々は寛容であったと思う。いや、寛容にならざるを得なかったと思う。だから、奉ずる神々も寛容になったと思う。和を以て貴しとなす。聖徳太子の言葉だと聞く。伝来の仏教を受け入れた。でも実は、天皇家は朝鮮半島に起源を持つと言われる説もある。国譲りの伝説だ。日本を席巻することになる天皇家は、何故自分たちの社より出雲の社を大きく創ることを認めたのか。古代の謎。ぜひ解き明かして欲しい。日本列島は太平洋にそそり立つ絶壁。人は西からしかやって来ない孤島だ。つまり、行き止まりだ。ということは、来た人を受け入れるか拒絶するかの二者択一しかない。拒絶すれば争いになる、殺し合いになる。最初にたどり着いた人たちも、苦心惨憺してたどり着いた地の果ての先の孤島だったはず。辛酸を舐めた人たちは、同じ苦労をしてたどり着いた者を受け入れたのであろう。私はこの地勢に、和を以て貴しとなす、と言う起源があると思う。仮に天皇家が朝鮮半島からやって来た人たちであったとしても、それ以前に住み着いていた人たちはそれを受け入れた。以降、天皇は常に国の中心に居た、据えられた。今も、形としてはそうだ。来るものは拒まなかった。宗教もそうだったと思う。ただ、宗教観は日本の人たちは他の国の人たちとは多少違うと思う。日本は多神教の国、八百万の神々がいるとされている。だから神棚があり、仏壇があり、あらゆるものに神が宿ると信じられている。和を以て、がその象徴だと思う。神々は争わない。これに対してキリスト教やイスラム教は一神教。唯一無二の全知全能の神を信仰する。イスラムの預言者ムハンマドは最後の預言者だと言われている。キリストも預言者の一人だが、最後の預言者はアラビア語で教えを説いた。コーランはアラビア語でしか読むことができない。日本の人たちが他の国の宗教を理解するためには、それぞれの国の成り立ちや歴史、多くの民族の移動や変遷を知り得た上で向き合わなければならないと思う。大陸は足で移動できる。日本の人たちの多くは同じ列島の中に定住してきた。ここに大きな違いがある。現在の人類はホモサピエンス、アフリカ大陸で誕生した。そして全世界に広がっていった。途中でユーラシア大陸で誕生した旧人ネアンデルタール人などと混血した。日本人の中にも数%のネアンデルタール人の遺伝子があるという。でも、生粋のアフリカ在住のホモサピエンスにはネアンデルタール人の遺伝子はない。世界に広がっていった人類はその土地土地に適応した姿、形、文化、言葉になった。そして再び相まみえたときに違う民族として争うことになったのだと思う。その歴史は悲しくも今、まだ続いている。人類が住むこの地球が唯一の星だということを知り尽くされていてもなお争いを止めない。人々は何を求めるのだろうか。時に神を掲げて他の神と争う。時に領土を求め、富を求める。本当に欲しいものは何なのだろうか。キーボードを打つ動作より頭の中を駆け巡る思いや考えの方が遥かにスピードが速いので、中身が飛び飛びになる。何の話だっけ。そうそう宗教。キリストとブッダは違う。神と仏だ。ゴッドと仏だ。キリスト教でいう神ゴッド、イスラム教でいう神アッラーは、はたして日本語の神という文字を充ててかみと読む言葉が当てはまるのだろうかと思うときがある。日本語の神は天照大神であり八百万の神々のこと。一神教の神とは違う。他の表現をすべきと私は思う。ただ、日本語の文化、漢字文化圏では他の言葉がないから充てただけ。そう理解し、日本の神々とは違うという認識を持たなければならない。そうしなければ誤解を生じ、その捉え方を間違えてしまう恐れがある。私の持論。私が信じるところの一神は造物主のみ。つまり創造の神、この宇宙を出現させた神のみ。この宇宙はおよそ2百億年前にビッグバンと言われる爆発があって誕生した。現在観測できる宇宙の果ての年代がその証左だという。そして宇宙は今もなお広がり続けているという。銀河系の田舎の方に位置していると言われるこの太陽系。同じような銀河にアンドロメダ大星雲がある。そんな銀河がこの宇宙の中に相当数存在するという。宇宙人はいるのか。いるはずだ。まだ出会えていないが、・・・。そんな中で、人間の存在は。ましてや人間の歴史の中での自分の存在は。先日のお寺の法要のお説教で、10代さかのぼれば千人のご先祖様がいる。そのうちの一人でも欠けていれば、あなたは生まれていなかったと説かれた。そして、生まれたものは必ず死ぬとも説かれた。偶然生まれたのかもしれない。でもそれは必然であったかも。キリストは神の教えを説いた。ブッダは悟りを開きそれを説いた。信じる者は救われると思う。神仏を敬おうと思う。いくら考えても思いを巡らせても、いくら学んでも知識を得ても、帰着するところは結局同じ。先祖を敬い、神仏を敬い、礼拝し、念じ、唱え、祈り、願う。姿勢として、手を合わせる。言葉を発する。人間にできることはそれだけだと思う。謙虚でありたいと思う。以上、クリスマスの日に駆け巡った思いを一部書き留めた。遅く起きてきた母と9時半頃朝飯を食った。中身は昨夜のカボチャの味噌汁とカボチャの煮染めだった。ウーン、旨かった。午前中はボーッとして過ごした。昼飯を食って、1時頃から母と出掛けた。1時半から下田南コミセンでスマホ教室だった。今日の出席者は4人。それぞれ都合があって少なかった。今日は花咲実先生が直接指導に来てくれた。スマホばかりに頼らないこと。スマホを無くしたり、無いときの緊急時に備えてアナログ情報も携帯する必要があることなど、お話しがあった。皆で話しをした。二時限目はLINEで年賀状を作った。面白かった。楽しかった。3時半に散会して帰宅した。回覧物が届いていたので仕分けをして、連絡員さんと班長さんたちに配って回った。強い風が吹いて、木々に枯れ葉が落ちていた。広葉樹の枯れ葉は吹き飛ばされて、雑木林がスッキリ寒々になっていた。道路を覆う木々の葉が少なくなったので、路面が明るくなった。やっと冬らしくなって、正月が来る感じになった。パソコンでAIとやりとりをして夢中になった。夕飯は8時頃。その後もパソコンと向き合った。